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3代目・丹野努院長の人柄・生い立ち、そして開業に至るまで

丹野努院長
自分の口の中を診る先生ってどんな人?歯医者さんとはいえ、よく知らない人に治療されるのは嫌なものです。より安心して治療を受けていただくため、現在、丹野歯科医院の院長を努める丹野努の幼少期の頃から3代目として開業するまでの経緯をご紹介します。

幼少時代
幼少の頃は、今とは違って、本当に無口でおとなしい子供でした。特に、小学校低学年の頃は女の子にもいじめられるくらいおとなしかった(笑)

しかし、丹野家はスポーツ一家だったんですね。特に、父は歯科医師になる前は本気でプロ野球選手を目指していたらしく、休みの日には弟達と一緒に小学校の校庭で野球の特訓の毎日でした。ただ、弟の方が体格良く、野球のセンスもあったため、私は早々に脱落。父の特訓は弟に集中するようになりました。

この頃から、弟に負けないように、何か違うことで両親に認めてもらおうと頑張っていました。すると、小学校五年生の時に、下野新聞社主催の下野教育美術展で、私の描いた絵画が最優秀賞に選ばれたんですね。しかも、二年連続で。「将来は画家に」と言われて、大きな自信になったことを覚えています。

この感性が、歯の補綴物の仕上がりに対しても活かされているように思います。

中学時代
中学に上がってからは、それまでおとなしさが嘘だったかのように活発になりました。「絵が得意」という文科系のイメージがあまり好きじゃなかったので、中学一年の時の担任の先生が陸上競技部の顧問だったこともあり、陸上競技部に入部しました。

最初は部員の中で一番足が遅かったのですが、とにかく部活に没頭し、頑張りました。すると、二年生の頃には400mリレーの選手に選ばれ、三年生になると50mも6秒台になり、いつのまにか学校で一番足が速くなっていました。

とにかく中学時代は、一生懸命頑張った時期でした。頑張り続ければ、自然と結果がついてくることを学んだのもこの経験によるものが大きいですね。

実家を継ぐことには抵抗があった
私の実家は、栃木県小山市で大正8年に開業した、二代続く歯科医院で、私が幼いころは一日200人くらいの患者さんが来院されるような大きな歯科医院だったんですね。

そのような環境で育ったので、歯科医師は身近な憧れの存在でありましたし、 自分も歯科医師になるものだと幼い頃から自然と思っていました。

しかし、「長男だから、実家の歯科医院を継ぐ」という決められたレールを敷かれているのには、やはり抵抗がありました。

大学を卒業して、歯科医師になっても、実家には戻らず、東京で勤務医として働き始めました。そこで、今のインプラント治療の基礎を学ばさせていただき、次に務めた埼玉の歯科医院では、 最先端の予防歯科治療を学ばせていただきました。この頃学んだことが、今の私の治療に大きく影響を与えています。

また、その頃は、海外研修や開業してから行くような講習会にも積極的に参加し、歯科医療の技術と知識に関しては同世代の誰にも負けないという自信を付けていました。

そして開業・・・。
栃木の実家の状況は、私の予想よりも大きく下回ります。昨今の歯科医院数急増と父の高齢により、来院患者さんも1日10人以下に減り、閉院は時間の問題という状況にまでなってしまっていました。

それでも、やるしかない!と腹をくくった私は、患者さんにより良い歯科医療を提供するために最新の設備を導入するための投資をし、なるべく自分でできることは自分でしてきました。

「丹野歯科医院」を昔のように患者さんで賑わう歯科医院に戻したい!という思いから、妻と2人、やれることはなんでもやってきました。盆も、正月も休まず診療し、痛い患者さんがいる時には休みの日でも診療しました。とにかく一生懸命頑張りました。

その後も、奮闘の日々は続きました。

それからあっという間に月日が流れました。様々な人々の助けと、新しい試みにより、1日の来院患者さんが5人から120人に、スタッフ1人から30人の大規模の歯科医院に成長することができました。

現在、丹野歯科医院は次のステージに上がろうとしています。それは、丹野歯科医院の理念でもある、「日本一の感動と安らぎの歯科医院」の実現です。その夢に向けて、スタッフ、歯科医師一丸となって日々精進しています。


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