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約100年。長い歴史に裏打ちされた歯科医院です

当院の歴史

●丹野歯科医院プロフィール
大正 8年 祖父・豊が栃木県小山市宮本町(現在地)にて丹野歯科医院開業
昭和46年 父・寛が祖父の医院を2代目として継承
平成18年 長男・努が父の医院を3代目として継承

当院の歴史長い歴史に裏付けられた安心感
丹野歯科医院は、大正8年開業以来、特に大きな事故もなく歯科医療を行なってこられました。現在までの来院患者数はゆうに10万人を超えています。これもひとえに皆様方のご支援の賜物であります。

2006年に、3代目に代替わりし、さらにパワーアップした当院は、診療台数10台、スタッフ数30人と県内有数の大型歯科医院となりました。1ヶ月に新しく来院される患者さんは、150人を超え、これは日本でも上位0.1%にあたります。

これからも、長い歴史の伝統を守りつつ、最新の医療技術、最善の医療サービスを提供できるよう、スタッフ一同、日々成長を重ね、努力していこうと思っています。

開院以来、変わり続ける歯科医療を取り巻く環境

当院の歴史時代が求める治療を提供
この100年の間に医療を取り巻く環境も大きく様変わりし、以前は栃木県小山市に数軒しかなかった医院も、現在は100軒以上となりました。祖父や父の時代には1日200人以上の患者さんを診ていた時もあったそうですが、現在では1日に診られる人数も限られています。

疾患の内容も大きく変化し、以前は急性疾患の対応に追われていましたが、これからは慢性疾患の治療、もしくは予防の時代になってきたと言えます。病気の人は治療して健康に、健康な人はより健康になる時代になりました。

再生医療という新しい波
歯医者さんの医療を取り巻く状況にも新しい兆しがあります。それはインプラントやエムドゲインに代表される再生医療の登場です。これまでは、歯や歯周組織は減る一方で増えることはないから、抜けるぎりぎりまで抜かないで残すという考え方が主流をしめていました。

これが再生医療の出現により、できるだけ残していくことを前提としながらも、お口の中全体やその人のその後の人生を考えた上で、インプラントなどの「足す医療」を行うことが出来るようになりました。

それにより、歯を失ってしまった喪失感から脱却し、よく噛める喜びをもう一度実感できる歯科治療が可能となりました。

丹野歯科医院3代目が歯医者のイメージを変えます

丹野努院長喜んで通いたくなる歯科医院へ
歯科治療を取り巻く環境が変わったとはいえ、歯医者に対する患者さんのイメージは「痛い」「怖い」「出来れば行きたくない」というものがほとんどではないでしょうか。「歯医者さんは、痛くなったら行くところ」「被せ物が取れたら行くところ」というのが日本での歯医者に対する捉えられ方です。

3代目となった丹野歯科医院では、そんな歯医者のイメージを払拭し、皆様方がよく噛める人生を快適に実現できるようにしたいと考えています。

今までのように「痛い」「怖い」「出来れば行きたくない」というイメージの歯医者ではなく、患者さんが「喜んで、楽しく、行きたくなる」そんなワクワクするような、心の通う医院を目指しています。

予防と再生医療
そのために、当院では予防と再生を中心とした治療を実践していきたいと思っています。患者さんが主体となった前向きな歯の予防、無くなった歯を取り戻せる希望に満ちた再生医療。

一生、自分の歯で食べることができれば、きっと良いことがあります。 患者さんの笑顔と笑い声が絶えないアットホームで、希望に満ちた歯科医院を目指しています。健康な歯でより良い人生を望む皆様方のお手伝いができれば幸いです。

3代目・丹野努院長の人柄・生い立ち、そして開業に至るまで

丹野努院長
自分の口の中を診る先生ってどんな人?歯医者さんとはいえ、よく知らない人に治療されるのは嫌なものです。より安心して治療を受けていただくため、現在、丹野歯科医院の院長を努める丹野努の幼少期の頃から3代目として開業するまでの経緯をご紹介します。

幼少時代
幼少の頃は、今とは違って、本当に無口でおとなしい子供でした。特に、小学校低学年の頃は女の子にもいじめられるくらいおとなしかった(笑)

しかし、丹野家はスポーツ一家だったんですね。特に、父は歯科医師になる前は本気でプロ野球選手を目指していたらしく、休みの日には弟達と一緒に小学校の校庭で野球の特訓の毎日でした。ただ、弟の方が体格良く、野球のセンスもあったため、私は早々に脱落。父の特訓は弟に集中するようになりました。

この頃から、弟に負けないように、何か違うことで両親に認めてもらおうと頑張っていました。すると、小学校五年生の時に、下野新聞社主催の下野教育美術展で、私の描いた絵画が最優秀賞に選ばれたんですね。しかも、二年連続で。「将来は画家に」と言われて、大きな自信になったことを覚えています。

この感性が、歯の補綴物の仕上がりに対しても活かされているように思います。

中学時代
中学に上がってからは、それまでおとなしさが嘘だったかのように活発になりました。「絵が得意」という文科系のイメージがあまり好きじゃなかったので、中学一年の時の担任の先生が陸上競技部の顧問だったこともあり、陸上競技部に入部しました。

最初は部員の中で一番足が遅かったのですが、とにかく部活に没頭し、頑張りました。すると、二年生の頃には400mリレーの選手に選ばれ、三年生になると50mも6秒台になり、いつのまにか学校で一番足が速くなっていました。

とにかく中学時代は、一生懸命頑張った時期でした。頑張り続ければ、自然と結果がついてくることを学んだのもこの経験によるものが大きいですね。

実家を継ぐことには抵抗があった
私の実家は、栃木県小山市で大正8年に開業した、二代続く歯科医院で、私が幼いころは一日200人くらいの患者さんが来院されるような大きな歯科医院だったんですね。

そのような環境で育ったので、歯科医師は身近な憧れの存在でありましたし、 自分も歯科医師になるものだと幼い頃から自然と思っていました。

しかし、「長男だから、実家の歯科医院を継ぐ」という決められたレールを敷かれているのには、やはり抵抗がありました。

大学を卒業して、歯科医師になっても、実家には戻らず、東京で勤務医として働き始めました。そこで、今のインプラント治療の基礎を学ばさせていただき、次に務めた埼玉の歯科医院では、 最先端の予防歯科治療を学ばせていただきました。この頃学んだことが、今の私の治療に大きく影響を与えています。

また、その頃は、海外研修や開業してから行くような講習会にも積極的に参加し、歯科医療の技術と知識に関しては同世代の誰にも負けないという自信を付けていました。

そして開業・・・。
栃木の実家の状況は、私の予想よりも大きく下回ります。昨今の歯科医院数急増と父の高齢により、来院患者さんも1日10人以下に減り、閉院は時間の問題という状況にまでなってしまっていました。

それでも、やるしかない!と腹をくくった私は、患者さんにより良い歯科医療を提供するために最新の設備を導入するための投資をし、なるべく自分でできることは自分でしてきました。

「丹野歯科医院」を昔のように患者さんで賑わう歯科医院に戻したい!という思いから、妻と2人、やれることはなんでもやってきました。盆も、正月も休まず診療し、痛い患者さんがいる時には休みの日でも診療しました。とにかく一生懸命頑張りました。

その後も、奮闘の日々は続きました。

それからあっという間に月日が流れました。様々な人々の助けと、新しい試みにより、1日の来院患者さんが5人から120人に、スタッフ1人から30人の大規模の歯科医院に成長することができました。

現在、丹野歯科医院は次のステージに上がろうとしています。それは、丹野歯科医院の理念でもある、「日本一の感動と安らぎの歯科医院」の実現です。その夢に向けて、スタッフ、歯科医師一丸となって日々精進しています。


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